この夏は太平洋戦争の終戦から80年となる節目の年。戦争体験者が年々減少し、記憶が風化していくなかで、次世代に戦争の悲惨さを語り継ぐべく精力的に活動しているのは俳優の北村総一朗氏だ。89歳のベテラン俳優が幼少に見た戦争の姿とは——。

◆米軍機が超低空飛行で一般市民を襲ってくる

俳優・北村総一朗が語る本土空襲の夜
俳優・北村総一朗
 太平洋戦争末期の1945年7月4日、高知は大規模な空襲に見舞われた。それを9歳の時に体験したのが、俳優の北村総一朗氏だ。

 戦争をテーマにした舞台の演出を最近手がけた北村氏に、自身の体験や反戦への思いを聞いた。

——高知大空襲の体験を聞かせてください。

北村総一朗氏(以下、北村):
僕の家は中心部から離れた高台にあったので、幸い直接の被害は免れたけど、市内を見下ろすと、真っ赤な火の海。

 焼夷弾が“ヒュッ”と音を立てながら落ちてきて、それがとにかく綺麗だった。でも、すぐに恐怖が襲ってきて、親父が掘った防空壕へ走り込んだね。

 そこで寝るんだけど、むしろの上にせんべい布団を敷いているだけだから、土とカビの臭さでひと晩を明かすのが本当に辛かった。

 空襲直後は、阿鼻叫喚で死体がゴロゴロしている状態でしたので、街中に子供が入ることは許されませんでした。

 しばらくしてから見に行くと、行ったことのある建物はすべて破壊されて何もなく、街から遠くを一望できてしまう。その光景が子供ながらショックでした。

 大空襲の前にも、ときどき数十機のグラマン戦闘機が飛んできて、操縦士の顔が見えるぐらいの低空飛行でバババ……と一般市民を狙って機銃掃射する。それはもう恐怖でした。

 数か月後、学校が再開すると、空いている席がいくつかありました。空襲で命を落としたんですね。

◆“鬼畜米英”だった彼らに手を振る大人に驚いた

俳優・北村総一朗が語る本土空襲の夜
戦時中の北村氏(左)、母(中央)と姉。当時は飢えに苦しんだという(写真提供:北村氏)
——当時の社会は、どのような空気だったのでしょうか。

北村:
周囲の大人は日本が勝つと思っていたので、僕たちもそう思っていました。大本営は嘘ばっかり言っていて、みんながそれを信じていた。

 東京が空襲に遭い、広島に原爆が落とされているのに大本営は「敵が焦っている証拠だ」「日本にはまだ余裕があるから戦いを続ける」と宣言しているわけで、恐ろしいですよね。

 いかに僕らが騙されていたか。あの戦争で、なぜ日本人があれだけ団結した要因はなんだったのか。今でも考えます。

——戦争が終わり、世の中はどう変わったのでしょうか。

北村:
担任の先生の言葉は今でも忘れません。「これから進駐軍が上陸してくる。あいつらは怖いから、見つかったら耳から耳に針金を通して、数珠つなぎにして連行される。絶対に見に行くな」と。

 でも、怖いもの見たさで行くわけです。すると、沿道には日本人がたくさんいて、進駐軍に向かってにこやかに手を振っている。

 鬼畜米英と叫んでいたのに、負けるや否や、手のひらを返すように大人が変わった。子供心にも不思議でしょうがなかったです。

 街では、進駐軍の兵隊と「パンパン(街娼)」と呼ばれる女性が腕を組んで歩いているところを見かけました。生活のためやむを得ない理由はあったのだろうけど、家族や親戚が殺されても親密になれることが不思議でした。

 公園などの暗い場所に行くと、ちり紙やサック(避妊具)が落ちている。当時の僕は性に目覚める頃だったので、相当ショックでしたね。