オリックスに大差をつけられる

 東尾の監督1年目となる95年は、優勝したオリックスに12.5ゲームの大差をつけられての3位。佐々木は、130試合全試合出場を果たしながらも、打率.271、17本塁打、55打点、18盗塁と、いずれも移籍1年目から個人成績を落としている。

 目立つのが、盗塁王だった前年からほぼ半減した盗塁数だった。今だから言えるのかもしれないが、佐々木は半ば呆れたように、その裏話を明かしてくれた。

「清原君の前ではあんまり走らないでくれ」

「あんまり走るな、って。契約更改に行ったときに、球団から『清原君の前ではやめてくれ。打席に集中できないから』って。キヨはそんなこと言ってないですよ。しかし、それを言う球団も球団だなと思いました。だから、じゃあ、分かりました。走りませんと」

 誰が言ったのか、誰の意向なのか。その犯人捜しは今回の記事のテーマにはそぐわないゆえ、これ以上の言及は避けたい。ただ、佐々木のプレースタイルに、幾分かの“足かせ”がはめられた感はなきにしもあらずだった。そんな難しい状況下で、佐々木はFA権を獲得した1995年、移籍を断念し、西武への残留を決めている。

「メジャーに最も近い日本人野手」と呼ばれ、水面下では代理人を通し、メジャー球団からのアプローチもあったという。佐々木自身もメジャーでのプレーを想定し、バットの材質を吟味し、スパイクのピンの長さに至るまで試行錯誤を繰り返していた。そんな中で西武残留に至った最大の要因が、95年の「V逸」だったという。

「勝てなかったことが、1つの理由なんです。ただそれだけなんです。1年目は優勝したけど、2年目はオリックスに負けた。東尾監督のときの1年目で優勝していたら、多分出ていたと思うんです。海外に行こうかな、とも考えたんですけど、タイミングが合わなかったんですね」