阪神のフロントとして野村克也、星野仙一、岡田彰布らのもとで働いた元編成部長、黒田正宏。そもそも「戦力外リスト」はどのように決まるのか? 当事者・黒田の証言で明かされた、驚きの内幕。そのダイジェスト版をお届けする。
阪神タイガースの暗黒期からの脱却に貢献した「知られざる重鎮」黒田正宏。「星野は人斬りと人集めとが巧いと、なんでもかんでも監督が前面に立ってやっているように思われたりするのだが実際にはそうではなくて、補強のための獲得交渉などに並行してこうした解雇通告などの仕事はすべて黒田がやってくれたのである」と星野仙一は著書で明かしていた。
“戦力外リスト”ができるまで
2002年オフ、阪神は星野監督のもとで血の入れ替えを敢行。なんと24人もの選手が球団を去った。その非情なクビ宣告を一手に引き受けたのが黒田だった。戦力外リストは6月の終わり頃から作成され、編成会議を3度重ねて最終決定される。シーズン中の9月から通告が始まった理由について、黒田はこう語る。
「最初に新聞に漏れると、『なんで先に言ってくれないんですか』と揉める原因になります。だから、早めの通告がいいという事情もある。それに、地下に駐車場のあるホテルなら、マスコミにもバレにくいでしょう」
遠山奨志ら6投手への通告日、部屋の外に選手が並び、緊張した面持ちで入室するたびに竹田邦夫常務が「来年は契約いたしません」と一言。そして黒田が解雇理由と今後について話した。「竹田さんは『もう、しんどいよ……』って溜息ついてましたわ。同じことを何度も言うから、辛いんでしょう。それに、サラリーマンって余程のことがない限り、クビにならないですからね」
度重なるクビ宣告に、黒田自身は心労を抱えなかったのだろうか。「別に、何も感じませんよ。プロ野球はそういう世界ですし、仕事として割り切っていました。70人枠があるので、戦力外にしないとドラフトで新人を取れませんしね」
この血の入れ替えを経て、阪神は翌2003年、リーグ優勝を飾った。星野は逝去する1カ月前、野球殿堂入りのパーティーで黒田に「ありがとうな」と声をかけた。「膵臓がんやったんやね。全然知らんかった。あれが最後の会話でした。ああ、感謝されたんやなと」
この大量解雇の後、黒田はさらに「大量補強」でも手腕を発揮する。金本知憲獲得、中村紀洋との交渉、鳥谷敬をめぐる巨人との争奪戦——その舞台裏には、まだ語られていない策士の素顔があった。インタビュー本編では、さらに詳しく掘り下げている。
〈つづく〉
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文=NumberWeb編集部
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