PRESIDENT BOOKS 掲載
トヨタ生産方式とはどのようなものなのか。トヨタ自動車の企業内学校「トヨタ工業学園」出身で、トヨタ生産方式が初めて導入された現場にいたOBの角田清さんは「非常に不思議な感覚だった。ラインのそばに山積みされていた部品が消えてしまうのに、それでも作業は進む」と振り返る。ノンフィクション作家の野地秩嘉さんが聞いた――。※本稿は、野地秩嘉『豊田章男が一番大事にする「トヨタの人づくり」 トヨタ工業学園の全貌』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。
■豊田自動織機から始まった親子二代の物語
角田清は1937年、刈谷市に生まれた。戦前、彼の父親は豊田自動織機にいた。当初は織機製造のラインにいたのだが、豊田喜一郎がつくった自動車部に移り、そこで鋳造を担当したのである。トヨタ自動車が設立された後、彼の父親は本社工場(1938年竣工)の鋳造部に配属され、定年まで勤め上げた。
父親が勤めていたこともあり、角田はトヨタを志望し、1953年、学園に入学した。
第二次世界大戦が終わって8年目のことだ。
1953年、日本はまだ独立していない。占領した連合国の軍機関GHQが日本の施政を担当していた。その年、朝鮮戦争が始まる。GHQの最高司令官だったマッカーサー元帥は日本政府に再軍備を要求、警察予備隊の創設を勧めた。政府はマッカーサー元帥の言葉に従い、その年のうちに警察予備隊が発足させた。
日本は朝鮮戦争による特需で産業界が盛況になる。ちなみに高度経済成長が始まるのはこれより後の1955年からだ。
■テレビもない時代の娯楽はラジオと映画
角田がトヨタに入社した後のことになる。なお、角田が学園にいた時代はまだテレビ放送は一般的ではなかった。NHKがテレビの本放送を開始したのは1953年2月だが、当時の人々の娯楽はラジオだった。ラジオでプロ野球や相撲、流行歌を聴くことであり、そして、休日に映画を見に行くことだった。
ちなみに角田が卒業した1956年でも、トヨタはまだ自動車会社と呼ぶほどの存在にはなっていなかった。
1956年のトヨタの乗用車生産台数は1万2001台である。日本全体でも自動車、トラックの数は3万2056台だ。東京、名古屋、大阪といった都市では自動車は町を走っていた。だが、地方へ行くとスクーター、オートバイ、トラック、オート三輪は走っていたが、乗用車を見かけることは珍しかったのである。