シリーズ戦後80年、7月14日からの2日間は道内も空襲被害にあいました。戦争体験を語れる人が減る中、石狩の男性が父の遺品を展示し戦争を伝えています。

1945年7月、北海道を襲ったアメリカ軍の爆撃機。14日と15日のわずか2日間で2900人あまりの死者を出し釧路や根室は一面焼け野原になりました。

石狩市本町地区。この町も80年前の15日、アメリカ軍の空襲に遭い多くの犠牲者がでました。

これはこの地区の空襲被害を示した資料。赤い色で塗られているのが焼夷弾によって全焼した家です。記録によると、空襲で落とされた爆弾は30数発。近くの八幡町地区と合わせて13人が死亡しました。

石狩空襲から80年。その痕跡が市内の資料館に残されています。

伊藤榮祐記者)

「こちらは石狩市の資料館です。歴史の様々なものが並べられる中、こちらにはロケット弾の一部が展示されています」

アメリカ軍の軍用機から発射されたロケット弾。爆薬の入った先端部は残っていませんが、ひしゃげたその形から爆発の威力が伺えます。その他にも…

伊藤榮祐記者)

「植物保護センターの一角にあるのがこちら、こちらはなんとホテルの浴槽の一部なんです」

現在のあそびーち石狩の近くに1937年に建てられた「石狩海浜ホテル」。空襲で全焼してしまいましたが、10年ほど前に植物保護センターの職員が手入れの最中に浴槽の一部を発見しました。

美しい柄をしたタイルが残り、いまでは石狩空襲の被害を伝える数少ない遺構となっています。

「こんにちは」

戦争の記憶を語り継ごうとする男性もいます。石狩市に住む中島勝久さん(82)です。

中島さんは自宅の横に私設資料館を建て、父親の勝人さんが終戦後に出征先から持ち帰ってきた戦争遺品を展示しています。

中島勝久さん)

「これは親父が着たもの、冬服、冬ズボン、自分が着て持って帰ってきた」

中島勝久さん)

「ここに中島用とある。昭和19年旭川。中島用って。自分があたった水筒だから最後まで持って帰ってきた」

館内には勝人さんが使っていた帽子や、兵隊が作戦図などを入れていたというカバンなど200点以上の品も展示され、静かに戦争を語り伝えています。これらの品々は2006年ごろ、中島さんが自宅横にあった蔵を解体する際に見つかったといいます。

父親の勝人さんは終戦の1年前に軍に召集され、稚内で旧ソ連の来襲に備えるための要塞づくりに従事していました。

残された日記からは闘いに備える緊張感が伺えます。

父親・勝人さんの日記)

「5月16日、木銃の訓練出る。午後は射撃の錬成に出る。六時、また練兵場で木銃の訓練」

一方、別の手記では戦争の終わりに安堵する兵隊たちの様子も。

父親・勝人さんの手記)

「その夜、乾パンのブリキの箱の大きいのを据え、灯油を入れて火をつけた。古兵が踊りはじめ、たちまち伝染。翌朝まで歌って踊った」

中島さんは多くの人に父親が持ち帰ってきた遺品に触れてもらい戦争について考えて欲しいと話します。

中島勝久さん)

「石狩で石狩の空襲を講演しますという人がいないのさ。勝っても負けても被害は子供だとか女のひとだとかしわ寄せがくる、そういうことから戦争はだめだと。ここでこういうことがあったと伝えていかなきゃいけない」