『誕生日』シャガール, The Birthday, Marc Chagall, 1915, Public domain, via WikiArt.

なかでも特に代表的な作品として、『誕生日』が挙げられます。ぐるっとねじられた首や中に浮く身体は、現実では到底ありえない不思議な体勢です。でもだからこそ、この瞬間の彼の”舞い上がった”気持ちが表現されているのかも…!

この記事では、愛に溢れたシャガールの名作『誕生日』、そして遠距離恋愛を乗り越えた2人のラブストーリーについて詳しく解説します!

シャガールはどんな画家?

マルク・シャガール(1887‐1985年)は「愛の画家」として知られますが、実は彼の作品は政治、宗教、戦争など、恋人をテーマにしたもの以外にも多岐にわたるテーマで作られました。それは、彼の立場や生きた時代が複雑だったことに理由があります。

1887‐1906年 現在のベラルーシでユダヤ人家庭に生まれる

『毛糸玉を持つ老婦人』マルク・シャガール, c. 1906, Old Woman with a Ball of Yarn, Marc Chagall, Public domain, via WikiArt.

シャガールは、現在のベラルーシにあたる地域(当時はロシア帝国)にハシディズム・ユダヤ人家庭の息子として生まれました。「ハシディズム(Hasidism/חסידות)」とは、18世紀に東ヨーロッパ(主にポーランドやウクライナ)で興ったユダヤ教の一派(宗教運動)です。

ハシディズム・ユダヤ教は、礼拝や音楽などを通じて神との一体感を大切にしている特徴があります。ユダヤ教のなかでも霊的な喜びを重視しており、これはのちのシャガールの作品にも影響を与えています。

たとえば、作品に登場する空を飛ぶ人物や天使、祈る人々、鳥などは、ハシディズム・ユダヤの環境で育ったシャガールのバックグラウンドによる表現でしょう。シャガールにとってはハシディズムは、感性や世界観のインスピレーションの源でした。

1906‐1910年 ロシアに美術留学。最愛の人ベラに出会う

『故人(死)』マルク・シャガール, c. 1908, The deceased (The Death), Marc Chagall, Public domain, via WikiArt.

幼い頃から画集をよく見ていたシャガールは、芸術に関心を持つようになります。地元では画家ユダ・ペンのもとで学んでいました。

10代の終盤、シャガールはサンクトペテルブルクの帝国芸術支援協会へ。舞台芸術家のレオン・バクストに師事するなかで、西欧的な価値観に触れ新しい芸術観を身に着けます。この頃の西欧美術界では、実験的な色使いや抽象表現が盛んに取り組まれていました。

サンクトペテルブルクから地元へ帰省した際、運命の人ベラに出会います。その後、彼の芸術家人生、そしてベラとの私生活はより大きな波乱の渦に巻き込まれていくのでした…。(ベラとの関係については次の章で詳しく紹介)

1910‐1914年 芸術の都パリへの旅立ち。ベラと離れ離れに

『私とその村』マルク・シャガール, 1911, I and the Village, Marc Chagall, Public domain, via WikiArt.

当時パリは、キュビスム(立体派)、フォーヴィスム(野獣派)、象徴主義など、さまざまな芸術スタイルが乱立し、切磋琢磨している時代でした。

ただ伝統的なルールに従って技術力の向上を目指すのではなく、当時のパリはとにかく「挑戦」を後押しする土壌。シャガールも周囲の影響を受けつつ、独自の幻想的な路線を確立しながらサロンに作品を出品するようになりました。

シャガールがパリで芸術を活動していた間、恋人ベラは地元ロシアに残りつづけました。

1914‐1922年 一時帰国のはずが戦争でロシアに足止め…

パリで芸術家としてのキャリアを積んでいたシャガールでしたが、1914年ロシア(現ベラルーシ)への一時帰国中に第一次世界大戦が勃発。そのままロシアにとどまることになりました。結果的に遠距離恋愛に終止符を打つこととなり、1915年にはベラと結婚。『誕生日』が描かれたのは、この年でした。

1917年のロシア革命後、地元のヴィテブスクで芸術人民委員に任命され、美術学校を創設します。しかし、政治的な対立に巻き込まれることもあり、しばらくして辞任を決意しました。1922年には、ロシアへの失望を抱いて国を離れました。

1923‐1941年 再びパリ。国際的な名声を得る

ニコライ・ゴーゴリ『死の魂』の挿絵, マルク・シャガール, Illustration to Nikolai Gogol's "Dead Souls", Marc Chagall, Public domain, via WikiArt.

政治的な状況が落ち着いて来たタイミング、そしてロシア政治への不信感が募ったタイミングで、シャガールは再びパリの地を踏みます。シャガールは、小説や旧約聖書の挿絵版画の依頼を受けながら、徐々に知名度を挙げていきました。

この2度目のパリ渡航が功を奏したのか、シャガールはヨーロッパやアメリカで展覧会を開催するように。彼の名声はパリやロシアにとどまらず、国際的に認められていったのです。

1941‐1948年 第二次世界大戦のナチス迫害を逃れ、ニューヨークへ亡命

第二次世界大戦が始まると、シャガールは再び苦しい状況に立たされることになりました。周知のとおり、ナチスが行ったユダヤ人迫害の魔の手はロシア系ユダヤ人であるシャガールのすぐ近くまで迫っていたためです。

シャガールは身を守るため、すでに展覧会などを通じてつながりを持ちつつあったアメリカへの亡命を決意します。アメリカでも高い評価を受けたものの…なんと最愛の人ベラが急逝。このときにシャガールの深い悲しみは、その後の多くの作品に反映されました。

1948‐1985年 フランスで過ごした晩年

晩年…というには少し長すぎるようですが(シャガールは長生きで98歳まで生きた)、1948年からの約37年間は、フランスで様々な芸術作品を残しました。

有名な作品としては、メッス大聖堂、国連本部(ニューヨーク)、エルサレムのハダッサ病院のステンドグラスがあります。また、パリのオペラ座の天井画もシャガールの作品です。

1985年に南仏サン=ポール=ド=ヴァンスでこの世を去るまでに、シャガールは世界中から数々の栄誉を受けました。

シャガールと妻ベラとの遠距離恋愛は不安な日々だった

激動な時代、そして人生を生きたシャガール。宗教や政治など固い作品も残しているため、お堅い人なのかな?とも思えますが、「愛の画家」と呼ばれるだけあり、最愛の人ベラに対する愛情は並々ならぬものでした。

キャリアと恋人の間で揺れるシャガール

結婚前にシャガールがパリで生活している間、ベラはロシアで過ごしており、2人は遠距離恋愛をしていました。20世紀初頭の遠距離恋愛は、今とはまったく状況が異なります。スマホがない状態で、簡単に声を聞けるわけでもなく、メッセージが瞬時に届くわけでもありません。

1911年にベラを残してパリに戻ったシャガールの気持ちはどんなものだったのでしょう。シャガールの人生に関する複数の記録によれば、シャガールはこの頃のベラとの遠距離恋愛を不安に感じていたようです。

ベラの両親に身分違いな恋を反対されていた

シャガールの不安のもっとも大きな種は、ベラとの身分格差でした。シャガールはかなり貧しい家庭に生まれたのに対し、ベラは宝石で財をなした裕福な家庭の出身だったためです。まだ若かったベラの両親は、社会的地位の低いシャガールとの結婚に反対していました。

もともと障壁のある関係だったうえに、パリとベラルーシで遠く離れていた2人。しかし、シャガールとベラの結びつきは距離や身分で壊れるようなものではありませんでした。シャガールだけではなく、ベラも彼に対して深い愛情を抱いていたのです。

再会、そして結婚式の3週間前の『誕生日』

『誕生日』シャガール, The Birthday, Marc Chagall, 1915, Public domain, via WikiArt. 同じ画像

1914年の一時帰国で再会し、その後戦争により結果的に地元に残ることになったシャガール。芸術家としては芳しくない出来事だったのでしょうが、結果的にベラと一緒に過ごすことができるようになります。

この『誕生日』の作品は、そんなシャガールとベラの甘い幸福を全面的に示した作品です。

シャガールの誕生日を祝いに来たベラ

シャガールのスタジオに、彼の誕生日を祝うために訪れたベラ。テーブルのうえの料理は、ケーキでしょうか。空間はシャガールの解釈によって複数の視点が混ざり合って表現されています。

シャガールは身体を不自然にひねり、宙に浮いたままベラにキスしています。ベラにとっては不意打ちだったのか、少し驚いたような表情をしている一方で、シャガールはとても幸せそうです。

遠距離恋愛を経て一緒に過ごす2人の抑えきれない喜び

数年間の遠距離を経て、ついに一緒に過ごすことができるようになった2人(理由は戦争によるやむない滞在だったとはいえ)。離れている間、ベラと結婚できないかもしれないと不安に思っていたシャガールは、誕生日を彼女が隣で祝ってくれることにこのうえない喜びを感じていたのでしょう。

この『誕生日』に流れる尊い時間は、芸術作品として昇華されることによって多くの人に共感してもらう機会を得ました。大切な人と過ごす喜びを素直に表現した『誕生日』は、現代でもシャガールの代表作の1つとして愛され続けています。

なぜシャガールの『誕生日』はこんなに魅力的なのか?

『誕生日』シャガール, The Birthday, Marc Chagall, 1915, Public domain, via WikiArt.

『誕生日』には、キュビズムとフォーヴィズムの影響を受けたシャガールの初期作品の特徴が反映されています。

シャガールらしい鮮やかな色味

ベラの手には花束が抱えられ、明るい色彩はパッと明かりが灯ったように目を引きますね。2人は地味な色の服をまとい、背景も落ち着いた色味ですが、そのなかの赤、青、緑の鮮やかさはやはりシャガールらしい深みがあります。

のちにさらに自由な色彩の旅に羽ばたいていくシャガールの芸術家キャリアのなかでも、『誕生日』は幻想的な鮮やかさがある作品です。シャガールは愛を自身の絵画におけるすべての色の源泉と称していました。

”舞い上がるような”喜びの表現

宙に浮かんで描かれたシャガールの身体は、重力などないようにリラックスしています。むしろ脚はうねうねと揺れており、脱力した様子が伝わります。

日本語でも幸せなときに「舞い上がる」という表現を使いますが、まさにこの作品に描かれたシャガールもそんな気持ちだったのでしょう。解剖学や重力、遠近法など、すべての科学を無視しても、いや、無視しているからこそ、内からこみあげてくる幸福を表現できているのかもしれません。

まとめ:愛する人が隣にいる喜びを静かに素直に表現した『誕生日』

『誕生日』は、「愛の画家」であるシャガールが、大切な人との舞い上がるように幸せな瞬間を描いた絵です。彼らがこの前まで数年間国際遠距離恋愛をしていたこと、この3週間後に入籍し、彼女の死まで寄り添いつづけたことを考えると、絵の味わいがより深まりますね。

以上、シャガールの『誕生日』についてでした!