阪神のフロントとして野村克也、星野仙一、岡田彰布らのもとで働いた元編成部長、黒田正宏。24選手に非情クビ通告、電撃トレード、鳥谷敬獲得に向けた巨人との争奪戦……。あの事件の裏側を黒田本人がNumberWebのロングインタビューで明かした。【全6回の3回目/第4回へつづく】
1紙にスクープを取られたら、御破算になる――。そんなトレードの掟を潰すために、“陰の実力者”はどう動いたのか。2002年オフ、星野仙一監督のもと、阪神は「大量解雇」と同時に、「大量補強」を断行した。そこで暗躍したのが、根本陸夫や野村克也に見出された黒田正宏・球団本部付部長だった。
あの3対3トレードのウラ側
11月6日、横須賀スタジアムで12球団合同トライアウトが開催された。帰り際、黒田は日本ハムの大宮龍男・育成部ディレクターに「トレードの話しようか」と持ち掛けた。大宮は「美味しい店あるんで、食べながら話しましょう」と快諾。お互いフロントを1人ずつ引き連れ、大宮の車で東京・浅草のどじょう鍋店に向かった。
「星野さんの要望は、左ピッチャーとキャッチャーだった。それを伝えたら、下柳(剛)の名前が出てきた。まさか、獲れると思わなかったね。野口(寿浩)の話も向こうが先にしてくれた」
実は、黒田は下柳と深い縁があった。1990年、ダイエーでヘッドコーチという肩書きながら、ドラフト会議に出席した際、新日鉄君津の下柳の指名を推薦していた。
「(西武の)根本さんが来年1位で下柳を取るという噂を聞いとったからね。ダイエーでも石川(晃)スカウトが評価していたから、『今年取ったらどうですか』と勧めたの。『何位で取ります?』『4位でも行けるんちゃう』と言ったら、ホンマに取れたんです(笑)。最初、球は速かったけど、コントロールは悪かったな」
93年、根本がダイエーの監督に就任すると、下柳は毎日のように打撃投手を命じられる。日増しに制球力が向上し、地肩の強さもあって、先発もリリーフも務めるタフネスとして重宝された。96年の日本ハム移籍後も活躍していたが、02年は17試合に投げて2勝7敗、防御率5.75と振るわず、トレード候補に挙げられた。
野口はチーム最多出場の捕手だったが、日本ハムには99年入団のドラフト1位・實松一成が成長しつつあった。