昔、甲子園に「タイガースばあさん」がいた。阪神球団創設時から甲子園球場に通った熱狂的な女性ファンだった。選手たちにごちそうし、住まいも提供するなどチームを支えた存在だった。このほど、出征した選手が戦地から「ばあさん」宛てに送ったはがきも見つかった。球団創設90周年、戦後80年の節目に、その人物像に迫ってみた。 (編集委員・内田 雅也)

 「タイガースばあさん」は名を田野ゑい(エイ)といった。甲子園球場から徒歩5分ほど、甲子園九番町に暮らす女性だった。

 球団創設初年度1936(昭和11)年で57歳。当時なら「ばあさん」と呼ばれる年代だろう。同年6月、初の朝鮮遠征に旅立つ前、球団会長・松方正雄主催の壮行会が甲子園ホテル(今の武庫川女子大甲子園会館)で開かれた。<とくに熱心な数名のファンも招待された。この中にタイガースばあさんもいた>と初代主将、後に監督も務めた松木謙治郎が著書『タイガースの生いたち』(恒文社)に記している。

 後の40年7月の満州遠征壮行会(甲子園ホテル)にも参加し、満州まで同行した。恐らく阪神間の知名士を招いた36年3月25日の球団結成披露宴(同)にも出席していたろう。

 「ばあさん」は財産家で、タイガースの選手たちの面倒をよくみていた。球団の有力な後援者、いわゆるタニマチ的な存在だった。

 若林忠志、藤村富美男ら選手を自宅に呼んで、すき焼きを振る舞った。自宅近くに4軒の借家を建て、門前真佐人、堀尾文人(ジミー堀尾)ら選手を住まわせた。ハワイ・マウイ島出身の日系2世だった堀尾は若林の仲介で阪神入り。妻アイリーンがいたため、2階家を用意した。