1995年、政治的迫害を逃れて来日したイラン人一家4人の代理人を受任したのをきっかけに、難民・入管問題に取り組むようになった児玉晃一さん。
2001年10月の「アフガン難民収容事件」(*1)、入管収容者の死亡をめぐって司法が国の責任を初めて認めた「カメルーン男性死亡事件」(*2)、2021年3月の「スリランカ女性名古屋入管死亡事件」(*3)──。
30年にわたって最前線に立ち続けてきた児玉さんは「当時はバブル期で、どこにでも就職できる状況でした。大学4年になっても進路を決めていなかった自分が法曹界を目指したのは、就職したくなかったからなんです」と、学生時代を振り返る。
努力次第で結果を出せるだろうと覚悟を決めて勉強に集中。2度目の挑戦で合格し、弁護士になって32年。児玉さんにこれまでの歩みを聞いた。(取材・文/塚田恭子)
●消去法で選んだ「弁護士」という道
司法試験の勉強中、児玉さんが憧れていたのは裁判官だった。
「"良心に従い、法律にのみ拘束される"という憲法の条文に痺れたんです」
だが、裁判修習で垣間見た裁判官の世界は、企業以上にヒエラルキーが厳しく、理想とのギャップを感じたという。
「検察修習では担当官によくしてもらいましたが、被害者保護の思いが強い検察官は、言葉尻を捉えて供述書をつくるなど、被疑者を黒く染めていきます。『被疑者はそこまで話していません』と伝えても『それをはねのけるのは弁護士の役目だ』といわれました」
消去法で弁護士になったので、かっこいい話はないんです──。児玉さんはそう言うが、法律事務所に入所後、イラン人一家を支援したことが、その後の進路を決定づけた。
「イラン人一家のことを手伝ったのは、友人の関聡介弁護士に頼まれたからで、事務所は外国人問題に特化していたわけではないんです。ただ、ボスは仕事をきちんとしていれば自由にやらせてくれる人だったので、当時は当番弁護や国選弁護なども引き受けていましたし、こうした案件に取り組むこともできました」