(歴史ライター:西股 総生)
はじめて城に興味を持った人のために城の面白さや、城歩きの楽しさがわかる書籍『1からわかる日本の城』の著者である西股総生さん。JBpressでは名城の歩き方や知られざる城の魅力はもちろん、城の撮影方法や、江戸城を中心とした幕藩体制の基本原理など、歴史にまつわる興味深い話を公開しています。今回は、田沼時代の賄賂横行を招いた江戸幕府の税制について紹介します。
「公的税制=田畑を基準に賦課する年貢」
7月9日掲載の前稿「田沼意次はなぜ賄賂政治家と評されたか、松平定信の『ネガキャン』と賄賂横行を許した幕府の体質」では、意次本人の姿勢いかんにかかわらず、田沼時代には幕府役人の間で賄賂が横行していた事実を述べた。そうなった原因として、
①もともと武家社会では贈答儀礼が盛んであったこと
②もともと幕府に民政機関が存在していないゆえに民政的な施策がいきおい許認可行政とならざるをえなかったこと
③泰平の世で武士が出世するには行政マンとして手柄をアピールする必要があったこと
などの事情があった。
けれども実はもう一つ、賄賂の横行を招く大きな、しかも根の深い要因があった。それは幕府の税制にかかわる問題である。これは一言で簡単に説明できる話ではないので、以下、順を追って説明しよう。
まず歴史的な原理として、いかに権力や体制が変わろうとも旧来の税制がすべて御破算になって、まっさらの新税制が施行されることはない、という前提を押さえておこう。
なぜなら、国家権力の源泉は徴税機構にあるからで、いかなる新政権も革命政府も、いったんは旧来の徴税機構を掌握しなければ、権力体として存続できない。ゆえに税制は、われわれが日々使っているパソコンのOSと同じように、常にアップデートを繰り返しながら機能しつづけるのである。
日本の場合だと、7世紀末〜8世紀初頭に初めての中央集権国家である律令国家が成立することで、統一的な税制が施行された。この律令税制は以降、少しずつ形を変え継ぎ足しを繰り返しながら、平安後期以降の荘園公領制へと受け継がれ、太閤検地をへて近世的な税制へとつながってゆく。つまり、ザックリいうなら近世社会の年貢は、律令制下の租庸調の子孫なのである。
その大元の律令税制は、田畑への課税を基本としていた。律令国家が成立した頃は、都以外は日本中すべてが田舎だったから、それでよかった。というより、他にやりようがなかったのだ。
やがて平安時代になって、地域ごとの横の交流が盛んになると、あちこちに市が立ったりささやかな港町ができてゆく。この頃、地域社会を牛耳るようになっていたのは、公領の郡司・郷司だの、荘園の荘官だの地頭だのといった、地徴税官の肩書きを身にまとったコワモテの人たちだった。彼ら=武士たちは、自分たちの勢力圏の中にある市や港町の商売人から、上前をはねるようになるが、はっきりいってヤクザがテキ屋から取り立てるテラ銭・ショバ代と変わらない。
その後、あれやこれやと紆余曲折はあるものの、公的には律令税制のなれの果てである年貢をベースに、領主がショバ代・テラ銭のたぐいを私的に取り立てる、というのが大枠であった。江戸時代の幕藩体制が米経済に立脚していたのも、「公的税制=田畑を基準に賦課する年貢」という原理に基づいていたからだ。
なお、戦国時代の東日本では年貢を銭で納めるのが一般的だったにもかかわらず、豊臣政権も江戸幕府も米の年貢を採用している。当時は「日本国政府」の発行する通貨が存在せず、銅銭の流通量が絶対的に不足していた(経済の規模に流通量が追いついていない)上に、銅銭の品質や相場が不安定だったからだ。これに対し、兵粮の基本である米は、大名の動員力を測るモノサシでもあった。
要するに何がいいたいかというと、そもそも徳川幕府には、商人や職人からシステマティックに税を取り立てる制度が、備わっていなかったのである。