広島と長崎に原爆が投下されて、まもなく80年です。長崎で被爆した女性が、カメラの前で初めて「あの日の記憶」を語りました。

「ピカーとした光」の記憶

1945年8月9日午前11時2分。長崎に原子爆弾が落とされました。広島に続く2発目の原爆は、約7万4千人の命を奪いました。

7月16日にRKKが訪ねたのは、熊本市に住む森田喜久子さん(91)の自宅です。森田さんは11歳のときに、爆心地から約5キロ離れた「道ノ尾」で被爆しました。

それは、一人で留守番をしていた時のことでした。

RKK

森田喜久子さん「爆音は聞こえておりました。その飛行機だったっていうんですよね。爆弾を落としたのは。夏だったから台所の窓を開けておりました。ピカーとした光を感じたんですね」

気づいた時には、自宅の外で倒れていたといいます。

森田さん「もう一瞬。家の外に出て、倒されていました。爆風によるものだと思います。一瞬ピカーッと感じて、怖いっていう気持ちも多分なかったんじゃないかなと思います。後でだんだん怖くなったという感じだった」

森田さんの命に別状はありませんでしたが、被爆後に白血球の数値に異常が出るようになりました。

森田さん「そのあとも、やっぱりそのとき放射能を浴びた人たちは症状が出るんですね。戦争って絶対いいことはありませんもんね。人は多く死ぬ。ものは壊れる。絶対、戦争はいいことはないと思います。でも、戦争というのはなくならないですね」

RKK

終戦後、熊本に移り住んだ森田さんは、被爆の経験を口にすることはほとんどありませんでした。

転機は2024年、冬のこと

ところが去年、被爆者などでつくる日本被団協がノーベル平和賞を受賞したことをきっかけに、森田さんは自身の経験を伝えたいと思うようになったのです。

そして今年、初めて被団協に経験談を寄せました。

RKK

『平和への思いを若い世代に』

それが、あの日から80年を経てたどり着いた、森田さんの思いです。

RKK

森田さん「今の若い方たちが、戦争のない未来をぜひ築いていただきたいと思っております。そのためには私たちが伝え残さなくてはいけないんでしょうけど、それがまだ、なかなかできていないです」

足が不自由なため講演会などに赴いて証言することは難しく、「自宅であれば」とカメラを入れて語ることになったのが、今回の取材でした。

「最後の被爆者たち」

核兵器廃絶などを訴える被団協は、熊本県内でも被爆者による講演や小中学校への出前授業などで戦争の悲惨さや平和への願いを伝えています。

熊本の会長を務める緒方さんは「森田さんのように被爆者が自ら話す声は、より『伝える力』がある」といいます。

RKK

熊本県被団協 緒方美保会長「その声を聞かない限りは、危機感も持てないだろうし、わからないですよね。知らないということは怖いことだと思います」

被団協によりますと、1995年には2300人ほどいた熊本県内の被爆者は、現在、約530人に減りました。講演会などで話ができる人は、わずか2人しかいないということです。

さらに、それを支える被団協のメンバー11人の平均年齢は80歳を超えています。

RKK

緒方会長「最後の被爆者の人たちの年齢ですよね、80年というと」

戦後80年を迎える今、平和への願いをどう未来につなげていくか。避けられない課題に直面しています。